戒めほどき

軍主として己を律する王子を、ロイが訪ねる話。

大切な家族を奪われたあの日を王子は今も覚えている。どれほど捜しても見つからなかった黎明の紋章も、今は自分が宿していた。
何故、このような事になってしまったのか。心は何度も押し潰されそうになった。それでも前を向き続けていられたのは、自分には成すべき使命があったからだ。もう二度と、心は折らない。強い決意は日々、己を突き動かしてくれている。
ロードレイクを救うという悲願を達成し、思わぬところで自分たちの新たな拠点も見つかった。この場所は、いまだ戦いの最中ではあるが活気づいている。ここで王子は日々、心を休ませていた。辛く苦しい事態が続くが、決してそれだけではないと本拠地が教えてくれる。心から楽しい一時を実感した際、一つ思う。
(僕がこんなに笑っている間も、リムは……)
今も、心苦しい生活を強いられているに違いない。危害は加えられない立場上だが、仇の目が届く場所にいる屈辱は常に付き纏う。
愛する妹の姿を思い浮かべた直後、穏やかな心境は一変する。自分だけが楽しく過ごして良いはずがない。その結論に至った直後、王子の心境は罪悪感によって占められる。とはいえ、今すぐに態度を改めれば周囲に心配をかけてしまうだろう。それまでは笑顔の絶えなかった者が急に無表情になってしまっては、不自然だと思わない方が難しい。
(だけど……。これは単なる言い訳じゃないのか)
自分が笑顔で在りたいがため、強引に理由を探しているも同然だ。この場所で楽しさを感じないようにするためには、どうしたらいいか。考えた結果、王子は理由をつけて周囲から距離を置く事にした。

ここ数日。次の戦いまでルクレティアから休暇の提案を受けた王子は、自室から一歩も出ずに兵法書を読み漁り続けていた。
「王子。あの……差し出がましい事を承知で言わせて頂きますが。そろそろまた、息抜きはいかがですか?」
ある日、この数日中は自分から遠ざけていたリオンが提案をしてくれた。王子にとってそれは嬉しい言葉だ。しかし手放しで喜び、リオンの厚意に甘えてしまっていいのかと同時に躊躇う。部屋を飛び出せば、抱いた決意は無意味となる。
「リオン、ごめん……。猶予がある内に、これを読めるだけ読んでおきたいんだ。誘ってくれて、ありがとう」
それまでの意思は変わらずに断る事が出来たが、罪悪感からは逃れられない。
「こちらこそ、ありがとうございます。王子に干渉しているも同然なのに、お優しい言葉をかけて下さって」
「干渉だなんて。リオンは僕を心配してくれているんだ。気にかけてくれる人がいるのは、幸せな事だよ」
だからこそ、心が痛む。彼女は今もこちらへの心配が絶えないのだろう。相手を安心させるべきではないのか。いや、そのせいにして自分が心を穏やかにしたいだけ。甘えは許されない。
部屋から出ていくリオンを見送りながら、綻びかけた気を引き締めた。彼女のせいにしてはいけない。楽しい、嬉しいなどの感情を抱けるような状況ではないと己に言い聞かせる。次に自らが心から笑うのは、この戦いに勝利してから。決意を新たに胸中でまとめ、改めて兵法書を読もうと心持ちを切り替えつつあった時。
「邪魔するぜー」
気怠そうな声に反して、自室の扉が勢いよく開かれた。驚きのあまり、肩が大きく跳ねる。
この部屋に訪れる者たちは扉を数回叩き、王子の了承を得てから足を踏み入れていた。しかし目前の少年は、その行程を全て飛ばしてここに立っている。
「ロイ、どうしたの?」
「そりゃ、あんたに用があって来たんだよ」
「僕に?」
遠慮する様子が全く感じられない彼は、椅子に腰掛けている王子の隣まで歩み寄る。何の用があるのか、全く身に覚えがない。
「その様子じゃ、心当たりがないって感じだな?」
「うん。君の言う通りだよ」
「ほんとか? ここ数日の、あんたの行動をよく考えてみろよ」
「何が言いたいのかな……?」
とぼけたように言葉を返すが、内心では気付いていた。
「言わなきゃ、わかんねぇか。……王子さん、最近めちゃくちゃ付き合いが悪くなったよな?」
思った通りだ。自分では上手く振る舞えているはずだったが、そうではなかったと思い知る。
「それは、悪かったよ。でも……本来は、こう在るべきだと僕は思っている」
「だから、シケた面して部屋に閉じこもってるのかよ。あんた、そんなんで楽しいのか?」
「……楽しいとか、楽しくないとかは重要ではない。今は戦中だ」
何が言いたいのか。突然この部屋を訪れて、出来れば触れて欲しくない事柄を突かれる。彼の意図は理解出来ないが、その遠慮がない様子については嬉しく思っていた。こちらの王子という立場を一切気に留めず、こうして彼は自分の言いたい事を率直に伝えてくれる。
「でも、ありがとう。こんな僕を気にかけてくれて。その気持ちは嬉しい」
ほんの一瞬、それまでの決意が揺らぎそうになった。ロイの言葉に含まれているであろう優しさは、王子の心を温める。
「僕は一日でも早く取り戻したいものがある。そのためには、一時も気を抜いてはいけない」
「姫さんを取り戻すまでは、自分は浮かれてちゃいけねぇ。そう思ってるんだろ?」
「……!」
穏やかな気持ちで語った後、核心を言い当てた彼に動揺した。感情を上手く抑えられない。これでは誤魔化す事も困難だろう。
「すごいな……。どうして、わかったの?」
「あんたが、わかりやすいから」
更に衝撃を受ける。自分では上手く立ち回れたと思っていたが、実際はそうでなかったというのか。自信もあっただけに、信じられなかった。出来れば信じたくもない。
「おいおい、そんなに驚く事か? ……ま、オレに気付かれるとは思ってなくてビビったんだろ?」
「えっと……」
「王子さん、オレをバカだって思ってそうだもんな。ちっとは見直したか?」
「いや、馬鹿なんて思わない。本当にそうなら、影武者を演じられてはいないだろうから。僕は君を尊敬している」
胸中は今も、ひどく動揺していたが。彼の誤解を解かなくてはいけない。その強い思いは王子から言葉を奪う事を留めてくれた。
「オ、オレの話はいいんだよっ! 今は、あんたの話をしてるんだ!」
声を荒げながらも少々顔を赤くしている様子から、心底怒らせているわけではないと伝わり安堵する。
「話を変えて、ごめん」
「いや、まぁ……こっちも、そんな風に仕向けちまったしな。で、合ってるんだろ? オレがさっき、王子さんに言った事」
「……うん。その通りだよ」
ここまで悟られてしまっていては、上手く誤魔化せる自信は無かった。こちらの心境に気付いたうえで訪ねてきてくれた相手を邪険には出来ない。確信をもって訪ねてきてくれた彼の優しさを切り捨てるほど、非情にはなりたくなかった。
(何て、中途半端なんだ……)
リムスレーアのためと、心を引き締めたはずではなかったのか。
「おい。また余計な事、考えてんだろ?」
己の心持ちに嫌悪し始めていた時、ロイの言葉で我に返る。
「本当にすごいな。ロイは僕の考えている事が、何でもわかるんだね」
「……さっきも言っただろ? あんたが、そんくらいわかりやすいからだ」
返答に少々の間が空いた。何か、彼の気に障る事を言ってしまったのだろうか。今すぐ訊ねて、それが正解ならば謝りたい。しかし、これ以上に話を逸らしてしまうのも心苦しいと思う。なので、今は自分が心の底に留めていたものを相手に話す事にする。
「ロイの言う通りだ。リムは今も辛い思いをしているのに、僕が心から笑うなんて……許されるわけがない」
「誰が、あんたを許さねぇって?」
「え……?」
少年の言葉によって、今まで漠然としか抱いていなかったそれを考え始める。
「誰でもない。僕が僕を許せないだけだ」
自分でも驚くほどに気持ちの整理が、この短時間で行えた。
誰が己の行動を責めるのか。あやふやなそれを、明確にする気はなかった。他者のせいにするなど、絶対にあってはならない。
「そんな風にシケた面をしてる方がよっぽど、周りの奴らは嫌なんじゃねぇの?」
「そう、かもしれないけど……それを理由にするのは、いけない」
今まで抱いていた動揺が、ますます大きくなる。ついには声も震え始めた。迷いはとうに捨てたはずだ。それなのに、決意が揺らぎつつある。
「姫さんだって、王子さんは笑ってた方が良いって思う。あんたら、仲が良いんだって? それなら、自分が大変なんだからあんたも同じく苦しめなんて……そんなひでぇ事を思うような相手じゃねぇだろ?」
激しい雷に打たれたような強い衝撃を受けた。この少年の言う通りだ。今の自分を見たらリムスレーアは何と言うか。使命ばかり考えている今の自分を、きっと案じてくれるだろう。しかしこれは、あくまで想像の話だ。自分が心から笑っていい理由にはならない。
「確かに、その通りだけど。でも、僕は……」
それでも、気を引き締めたままでいなくては。しかし、このままの心持ちではロイは引き下がらないだろう。自分は、どうすればいいのかと目前の彼に問いたくなる。だが、寸のところで言葉したい衝動を留めた。この答えは誰の助言も求めず、自ら見つけなくては。
「めんどくせぇなぁ! 楽しいなら楽しいで、思いっきり笑えばいいじゃねぇか!」
抱いた決意も、彼の言葉によって早々に吹き飛ばされそうだ。
「王子さん、オレらといて楽しくねぇのかよ?」
「違う……」
紛れもない本心を、考える間もなく呟いた。
「じゃ、簡単な話だ。無理に笑うよりも、自然に笑う方が良いに決まってる。みんな、あんたの楽しそうにしている顔が好きなんだ。だから、悪いんだけどよ……それまで通り、楽しそうにしててくれねぇか?」
「……うん。わかった。やってみるよ」
迷いを完全に断ち切れたわけではないが、ここで頷かなければ彼の心を踏みにじるも同然だ。ロイのせいにするわけではない。相手の気持ちも汲み、何より自分の意思で今の答えを選んだ。
「あんまり、気負い過ぎるなよ?」
「そうだね。仮に無理をしたとしても、ロイにはすぐ気付かれそうだし」
「……」
軽い気持ちで答えるが。再び彼は、ばつが悪そうにしている。
「ロイ……?」
この少年にとって、失言だったのか。彼の表情に戸惑い、詮索してもいいかと悩みながら様子を窺う。
「あー、いや。そんな顔すんなって。あんたのせいじゃねぇから」
やはりロイには、こちらの考えが筒抜けのようだ。彼の凄さを改めて実感していると、当人が口を開く。
「あのな、王子さん。ほんとは、違うんだ」
「何が……?」
「オレを鋭い奴だって、見直してくれてるのかもしれねぇけど。あんたがおかしいって、最初に気付いたのはオレじゃなくて……カイルの兄ちゃんだったんだ」
「カイルが?」
「あぁ。直接聞いたわけじゃねぇから、本人には内緒な?」
やや、頭の中が散らかり始める。胸中で自らを落ち着くように言い聞かせ、現状を整理し始めた。最初こそ混乱しかけたものの、少し考えれば状況を理解出来る。
「なるほど。カイルと誰かの話を、偶然にも聞いてしまったって事かな?」
「そういう事だ。さっすが王子さん! 察しがいいなぁ! 盗み聞きの趣味はねぇけど、内容が内容だったからな。つい、聞いちまった」
抱いた疑問は、すぐに答えが見つかる。先ほど感じた間の理由にも納得した。ロイは他者から得た情報で王子を訪ねた事に、負い目を感じているのかもしれない。カイルと話していた相手は、恐らくリオンだろう。彼が己を許さずとも、こちらにとっては喜ばしい事実だ。相手の心持ちを変えて欲しいまでには至らないが、自分の思いは聞いておいて欲しい。
「例え盗み聞きした事に、君が負い目を感じていたとしても。それを聞いてロイがここまで来てくれたのが、僕は嬉しい」
「……あんまり、褒めてくれるなよ。オレ、全部あんたのために行動してるってわけじゃねぇし……」
それも把握している。全てを含めて、今を嬉しく思っていた。
「知ってるよ。リオンのためでもあるって」
「っ……!」
「僕が彼女を困らせているから、代わりにロイが叱りに来てくれたんだと思ってる」
少年は顔を赤くし、こちらから目を逸らす。怒らせてしまう事を承知で、王子は言葉を続けた。
「本当にごめん。的外れな事を言っているかもしれない。何にせよ、君が僕に思いを話してくれた事には変わらない。それが嬉しいんだ」
「……違くねぇよ。だけどな! リオンのためだけに、あんたの所に来たわけじゃねぇから! そこは間違えんなよ!」
最初こそ声量は小さかったものの、徐々に大きさを増して力強い主張へと変わった。
「絶対、間違えない。約束するよ」
いまだ迷いは根底にあったにも関わらず彼の嬉しい言葉に背中を押され、気付いた時には既に言葉となっていた。
「よし! それなら、今からリオンも誘って飯でも食いに行こうぜ? 問題ないよな?」
「うん……。そうだね」
今も、リムスレーアを思うと心が痛む。この選択が本当に正しいのかとの疑問も残っている。それでも王子は、差し伸べられたロイの手を拒めなかった。
「じゃあ、行こうか」
「おう! 途中で逃げんなよ?」
「大丈夫。逃げないよ」
席から立ち、この少年と同じ目線で軽口を交えて自然と笑みが浮かぶ。ここ数日振りに、肩の力を抜いて笑ったと実感する。
「それと。あとで、ちゃんと謝れよ。あいつ……多分、王子さんの事を誰よりも心配してるからな」
自室を後にする直前、彼が言った。家族同然の彼女を気にかけてくれる事も、また嬉しく思う。
「もちろんだよ」
早く謝りたい。彼女の誘いを断った手前でロイと共に本拠地内を歩いていたら、困惑させてしまうだろう。誤解が生まれる前に話したい。
リオンやロイによって自分にも心から心配してくれる相手がいると実感出来る。太陽宮にいた頃は、そうだと言われても心の底からは信じられずにいた。この国には妹のリムスレーアだけが必要とされている。一部の貴族が陰で言う通り、自分は持て余されているに違いない。とても、ひねくれていた考えを抱いていた。しかし、今は違うと心から思える。
「王子さんが素直で良かったぜ。もし、あんたが強情だったら……殴ってでも考えを改めようとしたからな」
「素直だなんて。僕だって意地を張る時はあるよ?」
「マジかよ?」
「うん」
殴ってでもとは、周囲が聞けば物騒な話だと口を揃えるだろう。それでも喜ばしいと思わずにはいられない。対等に接してくれている少年を、友と呼んでいいだろうか。いつか、訊ねてみたい。
嬉しさが過ぎて、何故か泣きたくなった事だけは恥ずかしさ故に心の奥底へ閉じ込めた。