人を愛した神と、神を愛した人の話3

神六長編の最終話です。

次回のパーティに向けてMZDはスタジオ内の作業場に籠もりきりの日々を続ける。招待状の手配、会場のコンセプト、そして提供してくれた楽曲の編集。やるべき事が山積みだ。なのでこうして自宅に帰ろうとせず、この場所への泊まりこみに今回もすっかり慣れてしまった。もし六と恋仲の関係を続けていたら、また口論となっていたかもしれないと一人苦笑する。ふと、思い出に浸ってしまっていた時であった。スタジオ前に何者かの気配を感じる。まさかとMZDが思った頃には既にドアが開けられてしまっていた。
「おー、六じゃねぇか。どうした?」
たった今脳裏に思い描いていた男がこちらに歩み寄る。仕組んだ覚えはない。これは単なる偶然だからこそ、驚きが全面に出ないようそれとなく振舞ってみせる。ここで動揺してしまっては自分が彼にとって後ろめたい事をしてしまっていると認めてしまうようなものだ。いや。それについては既に認めているが、苦い思い出から何も学べていないと六に思われてしまう事は不本意であった。実際それは事実なのだが。その結論には気付かない振りを通す。
「お前に用があってな」
「俺様に?」
「あぁ」
突然の訪問はいまだMZDを内心にて動揺させる。また何処からか噂を仕入れてここに来たのだろうか? こちらが仕事に打ち込むため、スタジオの一室に寝泊まりしていると。やり直したいのは、優しい思い出だけでいい。こんな事までやり直したくはないと虫の良過ぎる話だと自覚したうえで思う。
何を言おうかと身構えていると、六が口を開いた。
「手が空いた時にでも、目を通してくれ」
「ん……?」
便箋を受け取りながら引き続き様子を窺う。そうか、六は自作の曲を届けに来てくれたのか。
「いや、今見させてもらうぜ。せっかくお前がわざわざ持って来てくれたんだ。それ以外に選択肢はねぇよ」
逸る気持ちに従い中身を取り出す。高揚して上手く紙が開けない事をほんの一瞬煩わしく思うが、程なくして広げられて安堵する。その後MZDは再び驚く。数枚の紙に記されていたのは新曲ではなく、いくつかの料理の工程であった。今目にしている物には見覚えがある。六と知り合って間も無い頃に食べさせてもらった煮豚の作り方だ。確かあの時は鶏肉を安く仕入れた故に代用したと言っていた。その時の事は今でも覚えている。とても美味しかった。その味と同じく鮮明に覚えているのが、当時の六の表情だ。夢中で彼の料理を頬張っていた時の笑顔。強気な性格であると認識していた相手の笑みはとても優しげで、一瞬ではあるが見惚れてしまった。
「どうしたんだよ? いきなり」
「深い意味はねぇ。何せ俺も急に思いついたからな」
「そっか。あ、せっかく来てくれたんだ。俺もちっとばかり休憩してぇから……少し話そうぜ? 六の予定次第だけどよ」
「それについては気にすんな。これといった予定はねぇ」
作業場の椅子から立ち上がり背伸びをする。少々の話し合いの結果、ここ周辺を散歩する事にした。

大通りから外れてあてもなく六と歩く。ここ数日スタジオに籠りきりであったせいか、日差しが少々肌に刺さる気がする。
「いい天気だなー! こりゃ、仕事は一旦置いてこのままどっか行っちまいてぇ!」
これは心からの言葉ではなく、ただの軽口に過ぎない。
「そうだな。こんなに気候がいいんだ。弁当でも持参して屋外でこうして風を感じながら過ごすのも悪くねぇよな」
それに六も気付いているようで、同じく軽く言葉を返してくれる。
「最高だな。お前の飯を食いながらまったり時間を過ごせるなら……おー、そうだ!」
「どうした?」
元々彼に問おうとしていた事柄について今まで忘れてしまっていた。たった今それを思い出し、考える間もなく声となる。これには少々相手を困惑させてしまった。
「レシピ、ありがとな? 深い意味は無いって六は言ってたけどよ。何で突然そうしてくれたのか、そのきっかけぐらいは聞いておきてぇなって思ったんだ」
「あぁ、そういう事か」
納得してくれた六は考えるような素振りを見せる。その直後、相手の表情が改まったようなものへと変わった。この男は今から何か重大な話をしようとしていると直感が言う。
「MZDは俺の飯を頻繁に褒めてくれただろ? その中でもよくリクエストしてくれた物をまとめた。仕事が落ち着いて、気が向いたら作ってみろ。案外簡単だぞ」
一見それは重要な話とは言い難い。だが、それは間違いだとすぐに気付く。その言葉の意味を瞬時に理解する。
「どっか、行っちまうのか?」
「……そういうわけじゃねぇよ。強いて言うのであれば、しばらく音楽からは離れようと思っているだけだ」
そうなれば必然と互いの心理的な距離は離れてしまうだろう。六が何を考えているかはわかりかねるが、彼なりの思いがある事は確かだ。
「音楽というか、俺様との間違いじゃね? あのレシピ集は餞別だったのか?」
不穏な空気にさせてしまわないよう細心の注意を払いながら、あくまで軽い様子のまま訊ねる。
「確かにそれも間違いじゃねぇな。今更こんな事を言うのもおかしいが……一つ、聞いてくれるか?」
「一つだけなんで遠慮すんな。言いたい事は全部言え」
六の意思が確固たるものであればあるほど、自分は彼の中から遠ざけられていると考えていいだろう。それが正解だ。彼は彼なりの道を決めた。そこには神であろうが何であろうが他者に干渉の権利は無い。様々な事を考えながら六の話に耳を傾ける。
「俺は……今でも、エムが好きだ。愛している」
「突然だなぁ、おい」
本来であるなら嬉しいそれはMZDを驚かせた。思いを伝えてくれた事もそうだが、当時関係を続けていた頃の愛称で呼んでくれた事がたまらなく嬉しい。
「……そっか。俺を愛してくれているから、あえてお前は俺から離れようって言うんだな」
穏やかに語りながら、とても六らしいと考える。目先の欲に手を伸ばす事はせずにあえて自制の姿勢を貫く。そこに彼らしさを感じた。その考えは決して珍しい話ではないと自分は知っている。相手を慕うからこそ一定の距離を取る。そうしている者たちをこれまで幾度となく見て来た。六も例外ではない。
全てが美しい思い出とは言い難いが、時の経過は苦い思い出すら美化してくれる。過ぎ去った日々を美しくかけがえのない思い出として昇華。きっとこの男もそれを目的としているのだろう。
「そうだな。大抵の奴はそう考えるんだろう。だが、俺は違う」
「六……?」
自分なりの答えを見つけて何とか納得へ繋げられていたにも関わらず、相手はこちらを再び動揺させる。
「俺がお前と離れようと思うのは、完全な決別のためじゃねぇ」
歩みを止め、六は周囲を見渡す。恐らく引き続き自分たち以外の者の気配を警戒しているのだろう。大通りを外れたこの場所は普段から寂れている。好んでこの場所を散歩していたような者は今まで見た事がない。六ともこの道は何度か歩いた。前情報があるがそれでも警戒を怠らないのも六らしいと考えながら動揺が全面に出てしまわないよう努める。冷静な心持ちでいなければ、大切な事を聞き逃してしまう。
「お前と恋仲であった頃よりは俺も成長出来た。だが、今のままでは不十分だ。仮にお前が許してくれたとても、また同じ事を繰り返さないとは絶対に言えない」
「それって、謙遜し過ぎじゃねぇ?」
気付いた時には思いが言葉となっていた。無意識に発したそれは六を苦笑させる。
「悪い。話を続けてくれ」
「あぁ、わかった」
再び互いに歩き始めながら六は口を開く。
「情けねぇ事に、今は曲についてイメージが全く浮かんでくれねぇんだ。だからこれを機に、音楽とお前とは一旦距離を取ろうと思う。お前への想いを温めて、尚且つ納得の行く曲が完成したら……今度は俺からお前に想いを告げる」
それが彼の答えのようだ。今の六に迷いは一切感じられない。この男の意思は紛れもなく本物だ。
「仮にだけどよ。もしその時に俺がまた誰かと付き合ってたらどうするんだ?」
意地の悪い質問だとは思ったが、これは訊いておかなければならない。
「そうだな……。もしそうなれば、それはそれでいいと思う。仮にお前が誰かと恋仲であるならきっと、エムの記憶から俺は薄れていると考えていいだろ?」
「そんな事を言われた手前、俺がお前を易々と忘れられると思うか?」
「俺の重い言葉を忘れさせてくれるほど惚れた奴が現れれば、それも可能だ」
あくまでこれは仮定の話に過ぎない。それなのに何故自分は少しばかり感情的になっているのか。相手はこちらに何を求めているかを探るが、これといった考えは一向に浮かばない。
「俺は当時、お前を理解しようとせずに俺の観点だけを押しつけた。前に指摘された事もあったな」
「そんなの、俺様の方こそ同じじゃねぇか」
苦い思い出が込み上げる。今とは比べ物にならないほど感情的に言葉をぶつけた事も鮮明に覚えている。
「まだ俺は成長過程だ。それなのに今お前との関係を修復すれば……また互いに疲弊しちまうだろ?」
今の言葉には説得力がある。しかしだからとはいえ、心から六の意思を受け入れようと思うにはまだ足りない。
「自分だけが悪い言い方をするなよ。俺だって非があった。だから無理に距離を取ろうとしなくたっていいんじゃねぇの?」
それなりの理由を述べて六の考えを改めさせようと思うのは、何よりもMZDが六と離れ難いと感じているからだ。
「ありがとな。エム」
しかし、六の意思は変わらない。その表情からは強固な決意が感じ取れる。もはやどんな言葉をかけたとしても、状況は変わらないだろう。
「やっぱ俺さ、六には「エム」って言われる方がしっくり来るな」
「そうか。俺も同じく考えていた」
「……ちゃんと飯、食うんだぞ?」
「それはむしろお前の方だろ?」
確かに食事についてはお互いに言える。仕事が落ち着いたら彼がしたためてくれた料理を作ってみようと思う。
「俺は大丈夫だ。あの時お前に救われて以来は、ちゃんと飯を食ってる」
「救ったなんて、そんな大それた話でもねぇだろ?」
再び苦い思い出が過る。あの頃は他にもっとやり方があったはずだ。この男はそうではないと言ってくれたが、それでもあの時自分が作った物は料理と呼べるものではないと今も言える。
救われたのはむしろ自分だ。それはあえて口にせず心の奥にしまう。今は過去を振り返る
べき時ではない。六は先だけを見据えている。不必要に思い出話をしてしまえば彼の妨げとなってしまう。
「エムはそう言ってくれるがな。だが、あの時お前が再び俺と関わろうとしてくれたからこそ……今の俺がいる。いくら感謝しても足りない」
「そっか。俺も一応は神としてお前の成長ってやつを見届けられたのか。こちらこそありがとな?」
彼に伴い自分も前を見ようと思いを抱きながら告げた。
「神と言うよりは、かけがえの無い友人として……俺はそう思う」
「……!」
不意打ち同然の言葉にMZDは言葉を失う。以前は衝突も数えきれないほどにあった、しかしそれでも愛していた相手が自分を神としてではなく一個人として見てくれている。己の密かな願いは、思いも寄らぬ所で叶ったと気付かされた。
「……やっぱ、さすがに今のは冒涜と言っても過言じゃねぇな……――?」
その後に続くはずであっただろう謝罪の言葉は、六を抱きしめる事で遮断した。
「エム……?」
「撤回なんてしなくていい。お前の言う通りなんだ。俺もそこらにいる奴らと変わらない」
「そこらにいる奴以上に、お前は人間らしいぞ」
この男は何処までこちらを喜ばせたら気が済むのか。これではこのまま離したくなくなる。だが、その思いを堪えて六を解放した。
「ありがとな。俺をちゃんと見てくれて。しばらくの間、達者でやれよ」
「あぁ、お前もな」
差し出した片手に六の片手が伸び、硬く握り合う。過ぎる日々について記憶は薄れていくのが常だ。しかし今日の事だけはいつまでも覚えていたいとMZDは強く願った。

あの日から数年が経過した。音楽のパーティはそれまでと変わらぬ頻度で開催している。今はようやく前準備が落ち着いたのでMZDは自宅に身を置き、己の手料理を食べている。今では六が残してくれた工程を逐一確認せずとも完成させる事が出来ていた。それはこの家の作業机の引き出しの奥にて大切に保管している。
最初こそ上手くいかない時もあったが、今では我ながら美味いと言える料理を日々作っていた。
今でもMZDは六へ思いを馳せている。いつものスタジオの作業場で彼の訪れを心待ちにしているが、いまだその願いは叶わずにいる事が現状だ。
(会いてぇなー……)
胸中の呟きは思いを増長させる。行動に移すまでにはこれまで至らなかったが、今日は少し違う。思い立ったのだから行動すべきだ。
あの時自分は、彼を待つとは言っていない。よって、こちらから会いに行ってはいけないという理由はない。やや都合の良い解釈であると自覚済みだ。
食事を終え、後片付けを済ませたMZDは六宅へ向かった。

数年ぶりに訪れた六宅周辺は特に大きな変化は無く、とても懐かしい思いで満たされている。
初めて彼に思いを告げ、場所を考えろと叱られた河川敷には今日も複数の散歩者がいた。当時二人で何度も足を運んだ定食屋も健在だ。
気の赴くままここまで来たが物事がそう上手く行くとは限らない。それでも行動を起こしたいと強く思ったからこそ、ここにいる。
六宅の目の前に立って深呼吸を数回繰り返す。彼を驚かせてしまうと考えられるが、初めて出会った当初のような冷たさと警戒を兼ねた反応だけは取られないだろう。妙な自信を持ちながら意を決して戸の前まで行く。相変わらず風情のある日本家屋をとても懐かしく思う。
換気口からあの男の歌が今にも聞こえてきそうだ。様々な思いが背中を押し、MZDは戸を叩いた。少し待つが反応は無い。もう一度叩く。状況は同じだ。六は今、留守にしているのだと納得した。
少し前の自分であれば彼を探しに行っていたが今のMZDは来た道を戻る。恐らくまだ、六との再会は尚早なのだと考えたからこそだ。いつか迎えられるであろう再会の時を夢見てその場を後にした。
六がしばらくあの家に戻っていないとMZDが知ったのは、その数ヶ月後であった。

数日間滞在した宿屋を後にし、六は次の地を目指す。明確な目的地は決めていない。あの家から遥か離れて数年、今も放浪の旅を続けている。
MZDに対する想いがどれほどのものなのか。それを知ろうとすべく、旅に出た。
離れるだけ離れても、いまだ六は彼を想っている。あの男との愛しい思い出も苦い思い出も全て大切なものだ。それらが今の自分を形成してくれている。
いつか彼と再会した時。そこに恋慕が残っていようがそうでなくても、きっと当時以上に良好な関係を築けるに違いない。根拠は無いが揺らぐ事のない自信が胸中にある。
気の赴くままに道を歩く六の脳裏には少しずつ、新しい曲のイメージが浮かびつつあった。